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岡山地方裁判所 昭和40年(ワ)236号 判決

原告 井本長谷親

被告 株式会社山陽新聞社

主文

1  被告は原告に対し金四四万〇七九一円およびこれに対する昭和四〇年一〇月五日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  原告のその余の請求を棄却する。

3  訴訟費用は一〇分し、その一を原告、その余を被告の負担とする。

4  この判決は1項に限り仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し金五四万三一九三円およびこれに対する昭和四〇年一〇月五日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

との判決および1項につき仮執行宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

との判決。

第二当事者の主張

一  請求原因

(一)  1 被告は肩書地に本社を置き、岡山県下を中心として日刊新聞を発行することを主たる業務としている株式会社である。

2 原告は昭和二七年一二月一〇日被告会社に四国支社勤務内海通信員(その後高松支社勤務小豆島通信員と名称変更がなされた)として肩書地において嘱託として雇用され、昭和三七年四月一日付で社員に昇格した。

(二)  ところが被告会社は昭和三九年一〇月一日付で原告に対し本社編集局校閲部に配置転換する旨発令し(以下本件配転という)、原告がこれに従つて着任しなかつたところ、被告会社は就業規則に定める着任期限の「発令後一〇日以内」に着任せず、無断欠勤したものであると認定したうえ、同年一二月二八日就業規則に定める解雇事由の「無断欠勤一カ月におよんだとき」にあたるとして原告に対し解雇の意思表示をなし(以下本件解雇という)、同年一〇月一日から一二月二八日までの間の給与、昭和三九年年末一時金につき次のとおり合計一〇万七一九九円のみを支払つた。

(1) 給与        四万九五九九円

昭和三九年一〇月分 二万三〇四八円

同年一一月分    二万一八一〇円

同年一二月分      四七四一円

(2) 年末一時金     五万七六〇〇円

(三)  しかし本件配転は被告会社がその従業員で組織する山陽新聞労働組合(以下山陽労組という)の組織を弱体化させ、壊滅させるために行なつた組織攻撃の一環であつて不当労働行為であり、仮にそうでないとしても原告を現任地から転勤させないとの約定に反し、合理的根拠を欠くものであつて配転権限の濫用であるから無効である。従つて原告がこれに従つて着任しなかつたとしても無断欠勤にあたらないし、これを理由に就業規則に定める前記解雇事由にあたるとして原告を解雇することは許されない。のみならず本件解雇自体前記理由からして不当労働行為であり、仮にそうでないとしても解雇権の濫用であるから無効である。

すなわち、

(1) 原告は昭和三七年四月一日山陽労組に加入した一般組合員である。

(2) 被告会社は次のとおり従来から山陽労組の組織を弱体化させ、壊滅させるために激しい組織攻撃を続けてきた。

イ 山陽労組(従来山陽新聞従業員組合と称していたのを昭和三〇年名称変更した)は、従来積極的な活動能力を欠き、自主性を有しない名ばかりの労働組合であつたが、昭和三〇年頃から青年労働者を中心に次第にこうした冬眠状態から目覚め、劣悪な労働条件を改善するため意欲的に活動する労働組合に脱皮し、昭和三三年九月賃金引き上げの要求を掲げて組合結成以来初のストライキ権を確立し、昭和三六年七月にはストライキに突入するまでに成長した。

ロ 被告会社は山陽労組のこうした変容を徹底的に嫌悪し、先ず組合の若い活動家が結集していた青年婦人部に着目し、被告会社にとつて危険な芽を早期に摘みとるため昭和三一年六月青年婦人部長尾原良一を本社から支社へ配転したのを皮切りに次々と歴代の青年婦人部長を本社から支社局へ配転した。また青年婦人部以外の主な活動家に対しても配転を行ない、昭和三三年八月に執行委員長三村実徳を組合員資格のない労務部次長に配転し、昭和三六年七月のストライキに際しては執行委員、中央委員など一〇名の活動家を支社局に配転しようとしたが、ストライキによつて撤回させられた。

ハ さらに被告会社は山陽労組がまだ十分自主的でない時期には組合大会、役員人事などに介入し、その後ストライキを実行するまでに成長するや、昭和三六年秋労務部長三村実徳、秘書部長中野開二をして山陽労組副執行委員長鷹取徹に対し「ストライキではいい恥をかかされた。どうしても組合をやつつけねばならん。いまにみておれ。山陽労組を動かしているのは共産党だ。お前も男になれ。共産党に入つてスパイをしてくれ。」と執拗にスパイ工作を迫らせるとともに、組合の分裂を策し、長崎巌(のちに結成された山陽新聞第一労働組合の書記長)らを三田村学校へ行かせ、組合分裂策を学ばせ、同年暮れ頃から同人らを主要メンバーとする「土曜会」なる組織を結成させ、昭和三七年二月ついに組合を分裂させ、山陽新聞第一労働組合(以下第一労組という)を結成させた。

ニ 被告会社は第一労組結成後直ちに山陽労組よりもいち早く第一労組との間で組合員資格の範囲につき暫定的な労働協約を締結し、これまで非組合員扱いとしてきた副部長、参事の組合員資格を認め、第一労組に加入させるとともに、従業員に対し第一労組への加入を強制し、また新規採用者に対しては保証人等を通じ第一労組への加入を迫つた。原告も分裂当初事情のわからないまま顔なじみで組合分裂の首謀者の一人である本社編集局社会部副部長花房敏に勧誘されて第一労組に加入したが、その後間もなく第一労組を脱退し、山陽労組に加入した。これに対し花房副部長や原告の前任者で入社紹介者でもある高松支社通信部副部長長町正直らから山陽労組を脱退し、第一労組に復帰するよう執拗に勧誘がなされたが、原告はこれを拒否した。

ホ 加えて被告会社は第一労組を結成参加した従業員に対し恩賞人事を行ない、例えば被告会社の意を受けて組合分裂に中心的な役割を果たした前記長崎巌をその後販売第二部副部長に、同じ小野敏を社会部長を経て地方部長に、同じ松枝達文を社会部長を経て大阪支社編集部長に、同じく花房敏を地方部長にそれぞれ昇任させた。これに対し山陽労組に加入している従業員は同時入社、同学歴、同経験であるのに平社員である。また身分の昇進についても被告会社には主事(大学卒で入社後六年で有資格となる)、副参事(同じく九年で有資格となる)、参事(同じく一二年で有資格となる)、特別参事(同じく一五年で有資格となる)などの身分があるが、第一労組員は資格を得ると例外なく直ちに昇進しているのに対し、山陽労組員は著しく昇進が遅れるか、又は全く昇進から除外されており、例えば大学卒で入社後一三年から一四年になるのにいまだに主事にも昇進しない者がある。この結果支給されるべき身分手当の面でも差別を受けている。

ヘ こうして被告会社は第一労組の保護育成に努める一方、昭和三七年六月新たに労務を担当する企画局を設置し、労務管理体制を強化するとともに、同年八月就業規則を改悪し、山陽労組の団体交渉要求も拒否してこれを実施した。

ト 同年一一月被告会社は山陽労組が岡山市内各所で「真実の報道をしよう。百万都市一月合併に反対しよう。」という趣旨のビラを配布したことに対し、被告会社の名誉を毀損したとして執行委員長則武真一以下組合四役五名を懲戒解雇、執行委員全員を停職二カ月ないし出勤停止一週間の懲戒処分に処した。そして昭和三八年一二月則武執行委員長ら全員が岡山地裁の地位保全仮処分申請事件において勝訴し、職場における闘争が盛り上がると直ちに広島高裁岡山支部に控訴し、五名を職場に復帰させなかつたうえ、五名が職場集会に参加すると実力でもつて排除するなど徹底的に抗争した。

チ 加うるに昭和三八年八月被告会社は山陽新聞創刊八五周年を翌年にひかえ社内体制の充実強化を図ると称し、山陽労組員に対し本人の能力、経験等を無視した異種配転および辺地配転を行なつた。すなわち本社編集局経済部紀豊記者と同局学芸部柳生尚志記者の二人を販売局販売拡張員へ、岡山県茶屋支局大田正安記者を広告局の外交係へ、総務局庶務部電話交換手主任小幡節子を主任から降格したうえ総務局資材部へ、同じ電話交換手春日井治子を工務局活版部の文選課へ、編集局政治部土井弘高記者を新設の鳥取県米子支局へ、福山支社神田利男記者を同じく新設の広島県東城支局へ、岡山県御津支局長池内節光記者を平局員に格下げのうえ広島県三次支局へそれぞれ配転した。

(3) そして本件配転の行なわれた当時被告会社は次のとおり合理化の総仕上げと言われた新勤務体制を実施するため山陽労組に対する組織攻撃を一層強めていた。

イ 昭和三八年一〇月被告会社は従来の一日八時間拘束の勤務体制を四週間を通じ一九二時間拘束に切り変える新勤務体制の実施とこれに伴い労働時間、時間外労働および休日の変更等労働条件を改悪したほか、会社構内における政治活動の禁止、組合の教宣活動に対する規制等を内容とする労働協約の改定を提案したが、山陽労組を中心とした強い反対にあい、計画どおり同年一二月一日から改定実施することができなかつた。当時山陽労組の組合員数は約一七〇名で総組合員数の四分の一を超えており、たとえ被告会社が第一労組との間で労働協約の改定につき妥結してもその労働協約の効力を山陽労組員におよぼすことができないため、被告会社は新勤務体制を実施するうえでこれに抵抗する山陽労組員の数を全組合員数の四分の一以下とする必要があつた。そこで被告会社は以前にもましてあらゆる手段を用い、その組織の弱体化、壊滅に努めた。

ロ すなわち被告会社はこれまで山陽労組に貸与してきた備品の引き上げを行ない、倉庫の使用を禁止し、電話の使用を制限するなど種々の便宜の供与を中止し、又は削減するとともに、山陽労組員に対し定期昇給額において第一労組員に比べ平均六・七、〇〇〇円の格差をつけ、年二回の一時金支給額においても一回あたり一万五〇〇〇円ないし二万五〇〇〇円程度減額した。

ハ さらに昭和三九年に入ると、代表取締役社長小寺正志は一月の支社局長会議において「前進を阻害する者は鉄の意思をもつて排除する。」という趣旨の挨拶を行ない、さらに社報には「我々の周りには雑草がある。……24Dはないものか。」といつた趣旨の記事が掲載されるなど、被告会社は山陽労組を露骨に誹謗中傷するとともに、これに対する敵意を明確に表明した。

ニ そして被告会社は昭和三九年三月原告に対する本件配転を含めて一連の配転を内示したが、そのなかで山陽労組員である東京支社営業部の高原敏子に対し同女が病身で医師から環境の変化は健康に支障をきたすと診断されており、転勤が困難なことを知りながら本社広告局広告部への配転を内示し、これに対し同女が苦情の申立をすると本社嘱託医の診察を受けることを要求し、同女は来岡のうえ診察を受けたが、その途中で倒れ、その後一カ月間岡山日赤病院に入院する事態を招いたがなお右内示を撤回せず、また玉野支社貝原光世記者に対し新設されることとなつた香川県大内支局への配転を内示し、同記者は玉野市内の小学校に教諭として勤務する妻と別居することを余儀なくさせられた。

ホ さらに同年四月一日被告会社は山陽労組に対してのみ労働協約の破棄を通告し、四月実施四〇〇〇円の賃金引き上げと抱き合わせで前記新勤務体制の実施を迫り、山陽労組の動揺を図つた。

ヘ こうして被告会社の山陽労組に対する組織攻撃が相次ぐなかで山陽労組を脱退して第一労組に加入する者は増加し、このため山陽労組の組合員数は急速に低下し、ついに総組合員数の四分の一以下となつた。

ト このため山陽労組も労働協約の改定に応じざるを得ず、昭和三九年七月前記新勤務体制はついに実施されるに至つた。

チ その後被告会社は新聞紙面の大幅な増頁を行ない、仕事量が増大したにもかかわらず職場に人員を補充せず、かえつて削減を行ない、このため特に編集局、工務局の製作部門において顕著に労働密度は高まつた。反面賃金面では同規模他社との格差が大幅に拡大した。

(4) 本件配転は次のとおり被告会社が山陽労組の組織を破壊するためになした山陽労組脱退、第一労組加入の勧誘に原告が応じなかつたことから、原告を解雇に追い込み他の山陽労組員に対する見せしめとするため行なつたものである。

イ 原告は昭和三九年三月上旬業務のため高松支社へ赴いた際原告の直接の上司である前記長町通信部副部長から「今からでも遅くない、第一労組に加入するならば定年まで小豆島で勤務できるし、また定年後嘱託として残れるよう本社に話してやろう。」「一二月の賞与は山陽労組は少ないはず。お前は多かろうが、これも第一労組へ来てもらえるという期待のもとに出したのだ。」、「会社としては山陽労組をつぶすのが最高方針だ。あなたが筋を通すといつても長いものには巻かれろというのが処世上手というものだ。」と持ちかけられ、山陽労組から脱退し、第一労組に加入するよう強く勧められたが、これを拒否した。

ロ 被告会社は原告が右勧誘に応じなかつたことに業を煮やし、原告は小豆島が郷里で自宅もあり、また家庭には長年関節リユウマチ、高血圧症などを患いしばしば病床に伏す妻とまだ年幼い二人の子供を抱え、しかも生計を維持するため会社業務のかたわら約一ヘクタールの畑と果樹園を耕作経営しているため、小豆島を離れることは家庭的にも経済的にも生活を破壊することを意味し、転勤に応じ難い事情にあることを知りながら、同月一七日原告に対し本件配転を内示した。これに対し、原告は同月二六日、小豆島勤務を条件に入社したものであり、妻が長年病気であることなどを理由に苦情を申し立てたが、被告会社はこれに耳を傾けようとせず、苦情仲裁委員会では三名の中立委員から本件配転の白紙撤回が斡旋案として提示されたが、これにも応ぜず、同年一〇月一日付で本件配転を発令した。

ハ その後原告は同月九日小寺社長あて生活・家庭事情等の理由でどうしても赴任できないから転勤は再考してほしい旨の要請をなし、さらに同月一四日と同月一九日「秋冷とともに家内の病気も再発し、目下通院中で予断を許さない状況にあります。」旨切々と妻の病状の悪化を訴えたが、これに対しても被告会社は何ら耳を傾けることがなかつた。そして被告会社はその後同年一一月一一日付小寺社長名の文書で原告に本社編集局校閲部に早急に着任するよう命じ、一一月一六日で無断欠勤一カ月におよぶためそのときは解雇する旨予告した。原告の妻はこうしたなかで心労を重ね、右文書が原告方に到着した一二日意識不明となり、昏睡状態を続けたまま同月一七日死亡した。

ニ 被告会社は原告の妻が死亡した後原告に対し嘱託ならば現任地で定年まで雇用してよいと通告したが、これは身分、賃金、待遇を従来より低下させる格下げであるとともに、嘱託には組合員資格がなく、あくまで原告を非組合員化することを目的としていたことが明らかである。

(5) 本件配転は次のとおり被告会社と原告との間でなされた原告を現任地から転勤させないとの約定に反してなされたものである。

イ 原告は被告会社に入社当時、すでに以前毎日新聞社に勤務して特派員、整理部勤務の経験を有するベテラン記者であつたが、家庭の都合のため郷里の小豆島に帰住することとなつたものであり、従つて昭和二七年一二月被告会社に嘱託として入社するにあたつても面接を担当した当時の常務取締役編集局長小寺正志に対し「いまさら偉くなろうという野心はひとかけらもない。一生小豆島においてくれさえすればそれでよい。」と小豆島勤務を唯一の条件とし、被告会社もこれを受け入れて原告を採用した。

ロ そして昭和三七年嘱託から社員に登用されるにあたつて行なわれた面接においても原告は異動の可否を尋ねた編集局長平井文雄らに対し「たとえ賃金が倍増するとしても社員になつたがために異動があるというのであれば社員となることを拒否する。」旨述べたため、当日は原告の社員登用についての結論はでなかつた。ところがその後高松支社通信部長津崎博から呼出しがあつて原告が同支社へ赴いたところ、同人から「社員になれば一般論としては異動があることとなつているので誓約書を提出してもらうが、それは形式的なもので、規定を曲げるわけにいかないから提出を求めているに過ぎず、社員になつても実質転勤がなければよいであろう。あなたの場合に限つて転勤などあろうはずがない。誓約書を出しても絶対に不利なことはしない。長い間嘱託で苦労してきたのだから、賃金も大幅にアツプすることだし、喜んで社員になりなさい。本社の方も井本は正直なもんだと笑つていた。」と説得されたため、漸く社員となることを承諾したものであり、その後平井編集局長あて面接の際の前言を取消す旨の書簡を送つたのは津崎通信部長の言に従い、形式を整えるためであつた。

(6) 本件配転は次のとおり合理的根拠を欠いている。

イ 被告会社は社業を推進し、香川県下を中心として取材の強化を図るため、小豆島通信部を廃止して新たに小豆島支局を設置するとともに本件配転を行なつたものであるとしている。

ロ しかし被告会社が取材強化のためと称して講じた措置は昭和三九年三月当時あつた香川県下の小豆島、三本松、直島、広島県下の上下の四通信部のうち小豆島と三本松の二通信部を小豆島と大内の二支局に昇格させ、これに伴い若干の支局経費を支出しただけであり、人員の増強はなく、しかも大内支局には前記のとおり玉野支社の貝原記者を配転した。のみならず直島通信部はその後廃止してしまつた。そして被告会社は同年四月一日付で小豆島支局長に香川県観音寺支局長上田正彰を発令したが、同人は単身赴任であつたため、小豆島を離れることが多く、このため重大事件が取材もれとなりかねないところを原告が肩替り取材したこともあり、かえつて取材態勢の弱体化を招いた。従つて被告会社が真実取材強化のため小豆島支局を新設するとともに本件配転を行なつたものとは言えない。

ハ 本件配転は被告会社の社業を推進し、取材の強化を図るうえでも妥当性を欠いている。

原告は前記のとおり小豆島出身の有能なベテラン記者であり、小豆島が交通不便な瀬戸内海の島特有の排他性の強い土地だけに原告のような地元出身の人間が取材活動のうえで有利なことは言うまでもなく、このため他の新聞社もすべて現地の人間を採用して取材にあたらせてきた実情にある。しかも農業と観光を中心とした小豆島の経済の特殊性からみて農業面に卓越した知識を有し、これまでに小豆島の農業の発展に対する功績に対し香川県知事、NHK、日本経済新聞社などから表彰されてきた原告が取材にあたることは被告会社にとつてきわめて有利なことである。原告は地元の政財界人、住民にも広く親しまれ、地元の記者仲間からも有能な記者として尊敬されてきたことは、本件配転が問題化したのち内海、土庄両町長、町議会議長、地元観光協会、小豆島バスなどから被告会社の小寺社長あて配転撤回嘆願書が提出されていることからも明らかである。原告のこれまでの勤務振りをみても、原告は入社以来約一〇年の長きにわたつて嘱託という身分と低賃金のもとで被告会社の業務に精励してきており、何ら他の通信員に比して遜色はない。これまで取材活動に必要なオートバイ、机等の器具備品類を自己負担で揃え、また電話も自費で架設した。新聞広告の拡張も原告は意欲的に行ない、また入社当時僅か一五〇部程度の部数であつた被告会社紙をその後いつきよに八〇〇部にまで増紙して地元紙である四国新聞を凌駕し、他の新聞販売店から脅威に思われた。また当初土庄町から内海町まで新聞の搬送者がいなかつたため、原告は一カ月にわたって早朝三時から起き出して約一〇キロメートルの距離をオートバイで飛ばし、新聞の搬送を続けたこともある。さらに前記上田支局長の取材した記事原稿と原告の取材した記事原稿のうち紙面に掲載された分量を比較してみても原告の方が圧倒的に多い。

ニ さらに被告会社は原告を本社編集局校閲部に配転したことについて、「本社勤務の経験のない原告には教育面から一度本社に来てもらう必要がある。」、「原告は当用漢字を使用しないので教育の必要がある。」としながら、他方では「原告は国漢の素養もあり、校閲には適任である。」、「定年間際だから楽をしてもらう。」などとするなど、その具体的必要性は不明確そのものであり、その述べるところは一貫性を欠いている。原告はこれまで長年にわたつて記者として勤務してきた者であり、校閲の仕事は初めてである。しかも定年を一年後にひかえた原告にとつて夜間勤務もあり、誤字脱字等を校正する校閲部の勤務は苦痛をもたらすものである。さらに原告が校閲部の勤務につかなかつたことによつてその業務には何ら支障を生じていない。

(7) 被告会社は本件配転後も次のとおり引き続き第一労組に対する助成と山陽労組に対する組織攻撃を行なつている。

イ 会社職制がベースアツプ闘争中第一労組員に酒を飲ませたことにつき、昭和四一年四月山陽労組が組合員の注意を喚起する趣旨の職場新聞、青年婦人ニユースを社内に配布したところ、被告会社は同年八月、社内秩序を乱し、個人を誹謗したとして執行委員長以下組合四役五名に対し停職一カ月、教宣部長、青年婦人部長に出勤停止一週間の懲戒処分をした。

ロ また山陽労組員に対する差別待遇は次第に激しくなり、昭和四二年夏期一時金支給額を不当に減額された。

ハ これにひきかえ、被告会社は、昭和四五年一月アメリカ原子力潜水艦佐世保寄港に関する報道において、共同通信から送られてきた「機動隊帰れ」という記事原稿が「全学連帰れ」との記事に書き違えられて報道され、その後この社会面トツプ記事を全文取消すという新聞界では前代未聞の不祥事が起きた際、その責任者で前第一労組執行委員長の編集局長に対し譴責、第一労組員の担当者に対し停職三カ月の軽い懲戒処分をするにとどめた。

(四)1  原告は昭和四〇年六月三日就業規則で定める満五五才の定年に達したため退職した。そして原告は本件配転発令後も右退職まで高松支社勤務小豆島通信員として被告会社の業務に従事し、取材した記事原稿を送り、これに対し被告会社は原告の送つた記事をしばらく新聞紙面に掲載していたが、その後これを小包便で原告あて送り返した。

2  従つて被告会社は原告に対し昭和三九年一〇月一日から昭和四〇年六月三日までの間の次の未払給与、一時金、立替経費合計五四万三一九三円を支払う義務がある。

(1) 給与       三四万八二〇二円

イ 原告は昭和三九年九月三〇日現在本給についてはその月の二六日限り、諸手当については翌月の二六日限りで次の金額の給与の支払を受けていた。

本給          三万五二四〇円

家族手当          二〇〇〇円

外勤記者基準外打切手当   六二三〇円

計           四万三四七〇円

従つて原告は昭和三九年一〇月一日以降も次の昇給期まで右金額の給与の支払を受けることができる。ただし家族手当については同年一一月一七日原告の妻が死亡したため同年一二月以降一五〇〇円となる(死亡した月は全額支給される)。

ロ 昭和四〇年四月一日以降退職する月まで賃金引き上げ等のため原告の給与は次の金額となる。

本給          三万八二九七円

家族手当          一五〇〇円

勤続手当           三〇〇円

外勤記者基準外打切手当   六二三〇円

計           四万六三二七円

すなわち同年五月三一日被告会社と原告の加入する山陽労組との間に締結された賃金引き上げに関する協定に基づき同年四月一日から組合員一人平均二六〇〇円、配分方法は定期昇給として調整金八〇〇円、ベースアツプとして一律一三〇〇円スライド五〇〇円の本給引き上げが実施された。そのうち定期昇給分の調整金については被告会社の査定によつて決定されるものであり、原告の場合査定がなされていないが、被告会社の責に帰すべき事由によつて原告が他の従業員よりも不利益な取扱いを受けるのは公平の原則に反するところであり、原告が少なくとも平均以上の勤務成績を有することからすると組合員の平均本給額に対する平均調整金額の比率を原告の本給額に乗じて算出した金額につき被告会社が原告に対し調整金として支払う義務があるとするのが合理的である。当時の平均本給額は二万六九九〇円であるから、調整金一〇四四円、スライド七一三円となる。従つて本給は賃金引き上げによつて前記金額となる。

また被告会社では勤続三年以上の者に対しては勤続一年につき月額一〇〇円の勤続手当が支給されることとなつており、原告は昭和四〇年四月一日をもつて勤続三年以上に達するから、同月以降勤続手当三〇〇円の支給を受けることができる。

従つて原告は昭和四〇年四月一日以降同年六月三日まで前記金額の給与の支払を受けることができる。而して退職した月については退職日のいかんを問わず全額支給されることとなつている。

ハ 以上昭和三九年一〇月一日から昭和四〇年六月三日までの間に支払を受けるべき給与は合計三九万七八〇一円となるが、既に支払を受けている前記(二)(1)の四万九五九九円を差し引くと残額は三四万八二〇二円となる。

ニ 仮に前記ロの査定部分につき被告会社の支給額についての意思表示がないため、原告が賃金債権を有しないとしても、被告会社が原告に対しなすべき査定を行なわないことにより、原告は少なくとも平均以上の勤務成績を有したことから受けることができたはずの前記算出にかかる調整金に対する具体的にして確実な期待を喪失したものであるから、これによつて原告が受けた調整金相当額の損害を賠償する義務がある。従つて原告は昭和三九年一〇月一日から昭和四〇年六月三日までの間の給与および損害賠償として前記ハ記載の金額の支払を求めることができる。

(2) 一時金       一五万九九六六円

イ 昭和三九年一二月九日被告会社と山陽労組との間で締結された昭和三九年年末一時金に関する協定に基づき、同月一七日組合員一人平均八万九〇〇〇円、配分方法は本給の一九割家族手当の一五割職分手当の五割一律一万円調整金二万八一三〇円の一時金が支給された。そのうち調整金については被告会社の査定によつて決定されるものであり、原告の場合査定がなされていないが、前記賃金引き上げの場合の主位的主張と同様の理由で被告会社は平均本給額に対する平均調整金の比率を原告の本給額に乗じて算出した金額を調整金として支払う義務がある。当時の平均本給額に対する平均調整金の比率は〇・九二八であるからこれを原告の本給額に乗じると三万二七〇二円となる。従つて原告は昭和三九年年末一時金として合計一一万二六五八円の支払を受けることができる。

ロ 次に昭和四〇年六月二六日被告会社と山陽労組との間で締結された昭和四〇年夏季一時金に関する協定に基づき、同月三〇日組合員一人平均八万四〇〇〇円、配分方法は本給の一八割家族手当の一五割身分手当の五割一律九五〇〇円調整金一万九〇〇〇円の一時金が支給された。そのうち調整金については前同様被告会社は平均本給額に対する平均調整金の比率を原告の本給額に乗じて算出した金額を調整金として支払う義務がある。当時の平均本給額に対する平均調整金の比率は〇・六四三であるからこれを原告の本給額に乗じると二万四六二四円となる。従つて原告は昭和四〇年夏季一時金として一〇万四九〇八円の支払を受けることができる。

ハ 以上昭和三九年年末分および昭和四〇年夏季分として支払を受けるべき一時金は合計二一万七五六六円となるが、既に支払を受けている前記(二)(2)の五万七六〇〇円を差し引くと残額は一五万九九六六円となる。

ニ 仮に前記各査定部分につき賃金債権を有しないとしても、前同様被告会社は調整金相当額の損害を賠償すべき義務があるから、原告は昭和三九年年末分、昭和四〇年夏季分の一時金および損害賠償として前記ハ記載の金額の支払を求めることができる。

(3) 立替経費      三万五〇二五円

イ 原告は昭和三九年一〇月一日から昭和四〇年五月三一日までの間高松支社勤務小豆島通信員として勤務し別紙一覧表のとおり写真フイルム代等合計三万五〇二五円の経費を出捐した。

ロ 右経費は従来被告会社が通信部経費として負担してきたものであり、被告会社は原告に対し右立替経費を支払う義務がある。

(五)  よつて原告は被告に対し五四万三一九三円およびこれに対する訴変更申立書送達の翌日である昭和四〇年一〇月五日から完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する答弁

(一)  請求原因(一)項12の事実をいずれも認める。

(二)  同(二)項の事実を認める。

(三)  同(三)項の事実中、(1)の原告が山陽労組員であること、(2)イの山陽労組が従来山陽新聞従業員組合と称していたのを昭和三〇年名称変更したこと、山陽労組が昭和三三年九月賃金引き上げの要求を掲げてストライキ権を確立したこと、同ハの昭和三七年二月山陽労組が分裂し、第一労組が結成されたこと、同ニの第一労組結成直後被告会社が第一労組との間で組合員資格の範囲につき暫定的な労働協約を締結したこと、(4)ロの被告会社が昭和三九年三月一七日原告に対し本件配転を内示したこと、これに対し原告が同月二六日小豆島勤務を条件に入社したものであり、妻が長年病気であることなどを理由に苦情を申し立てたこと、被告会社が同年一〇月一日付で本件配転を発令したこと、同ハの原告から本件配転につき再考してほしい旨の要請がなされたこと、被告会社が原告に対し本社編集局校閲部に早急に着任するよう命じたこと、原告の妻が一一月一七日死亡したこと、(5)イの原告が被告会社に入社する以前毎日新聞社に勤務し、特派員、整理部勤務などの経験を有する記者であつたこと、(6)イの被告会社が小豆島通信部を廃止して新たに小豆島支局を設置し、そのころ本件配転を行なつたものであることをいずれも認め、(1)の原告が山陽労組に加入したのが昭和三七年四月一日であること、一般組合員であること、(2)イの山陽労組が昭和三六年七月にストライキに突入したこと、同ロの被告会社が昭和三一年六月青年婦人部長尾原良一を本社から支社へ配転したこと、昭和三三年八月執行委員長三村実徳を組合員資格のない労務部次長に配転したこと、昭和三六年七月のストライキに際して執行委員、中央委員など一〇名の活動家を本社から支社局に配転しようとしたがストによつて撤回したこと、同ハの昭和三六年秋労務部長三村実徳、秘書部長中野開二が副執行委員長鷹取徹に対しスパイ工作を迫つたこと、同ニの原告が組合分裂当初本社編集局社会部副部長花房敏に勧誘されて第一労組に加入したが、その後間もなく脱退したこと、これに対し花房副部長や原告の前任者で入社紹介者でもある高松支社通信部副部長長町正直らが原告に山陽労組を脱退し、第一労組に加入するよう勧誘したが、原告がこれを拒否したこと、同ホの長崎巌を販売第二部副部長に、小野徹を社会部長を経て地方部長に、松枝達文を社会部長を経て大阪支社編集部長に、花房敏を地方部長に昇任させたこと、被告会社には主事、副参事、参事、特別参事などの身分があること、同への昭和三七年六月新たに労務を担当する企画局を設置したこと、同年八月就業規則を改定したこと、同トの同年一一月山陽労組が岡山市内各所でビラを配布したことに対し、被告会社の名誉を毀損したとして執行委員長則武真一以下組合役員に懲戒解雇などの懲戒処分をしたこと、昭和三八年一二月則武執行委員長以下五名が岡山地裁の地位保全仮処分申請事件において勝訴したのに対し広島高裁岡山支部に控訴し、職場に復帰させなかつたうえ、五名が職場集会に参加すると実力で排除したこと、同チの昭和三八年八月被告会社が本社編集局経済部紀豊記者と同局学芸部柳生尚志記者の二人を販売局販売拡張員へ配転したのを始めとする山陽労組員に対する一連の配転を行なつたこと、(3)イの昭和三八年一〇月被告会社が新勤務体制の実施とこれに伴い労働協約の改定を提案したが、山陽労組を中心とする反対にあい、計画どおり同年一二月から改定実施できなかつたこと、当時山陽労組の組合員数が約一七〇名で総組合員数の四分の一を超えていたこと、同ハの昭和三九年一月代表取締役社長小寺正志が支社局長会議において「前進を阻害する者は鉄の意思をもつて排除する。」趣旨の挨拶を行ない、また社報には「我々の周囲には雑草がある。……24Dはないものか。」との趣旨の記事が掲載されたこと、同ニの被告会社が昭和三九年三月本件配転とともに高原敏子ら山陽労組員に対する配転を内示し、同女が診察の途中倒れ、その後一カ月入院したこと、同ホの被告会社が同年四月一日山陽労組に対してのみ労働協約の破棄を通告し、四月実施四〇〇〇円の賃金引き上げと抱き合わせで新勤務体制の実施を迫つたこと、同への山陽労組の組合員数が総組合員数の四分の一以下となつたこと、同トの山陽労組も労働協約の改定に応じ、昭和三九年七月から新勤務体制が実施されたこと、(4)ハの被告会社が社長名の文書で原告に対し一一月一六日で無断欠勤一カ月におよぶためそのときは解雇する旨予告したこと、同ニの原告の妻が死亡した後嘱託ならば現任地で定年まで雇用してよいと原告に通告したこと、(6)ロの被告会社が昭和三九年三月当時あつた小豆島通信部以下四通信部のうち二通信部を支局に昇格したが、その後直島通信部を廃止したこと、同年四月一日付で小豆島支局長に観音寺支局長上田正彰を発令したが、同人が単身赴任であつたこと、同ハの他の新聞社も小豆島では現地の人間を採用して取材にあたらせていること、原告が農業面に卓越した知識を有し、これまで香川県知事などから表彰されてきたこと、本件配転が問題化したのち内海、土庄両町長などから配転撤回の嘆願書が提出されたこと、原告がオートバイ等を自己負担で揃え、電話も自費で架設したこと、被告会社紙を増紙させたこと、新聞の搬送にまでも従事したこと、(7)の山陽労組が職場新聞を配布したことに関して被告会社が昭和四一年八月執行委員長以下組合役員を懲戒処分に付したこと、同ハの昭和四五年一月アメリカ原子力潜水艦佐世保寄港についての報道に関して起きた社会面トツプ記事の全文取消しにあたりその責任者で前第一労組執行委員長の編集局長に対し譴責、第一労組員の担当者に停職三カ月の懲戒処分をしたことを除き、その余の事実を否認する。

被告会社が本件配転を行なつたのは全く業務上の理由によるものである。

そして被告会社では就業規則で勤務地の変更を伴う異動の決定を受けた従業員は特別の事情のない限り発令の日から一〇日以内に着任しなければならないと定められており、原告は被告会社から昭和三九年一〇月一二日以降着任しないときは無断欠勤となり、解雇される旨再三にわたつて警告を受けたにもかかわらず、一カ月以上におよんで着任しなかつたため、被告会社は就業規則に基づき解雇したものである。

請求原因(三)項(2)ニの被告会社が第一労組との間で締結した暫定的な労働協約はそれまで山陽労組との間で合意に達していたものと同じ内容のものであり、しかも山陽労組との間でもその後間もなく同内容の労働協約を締結している。また同(三)項(5)は全く事実に反している。原告は嘱託から社員に登用されるにあたり現任地からの異動が当然あることを了承していたものであり、原告と同時に社員になることができたにもかかわらず異動命令に応ずることが困難なためそのまま嘱託で残つた者があることからしても原告が主張するような約定がなかつたことが明らかである。

(四)  請求原因(四)項1の事実中、原告が昭和四〇年六月三日就業規則に定める満五五才の定年に達したことを認め、その余の事実を否認し、同項2の事実中、(1)イの原告が昭和三九年九月三〇日現在毎月主張金額の給与を主張時期に支払を受けていたこと、原告の妻が同年一一月一七日死亡したこと、(3)ロのうち被告会社が従来通信員に対し写真フイルム代、同現像代、記者会費を負担していたこと、図書資料費として同業他社の二種類の新聞の購読料を負担していたこと、通信員の自宅の電話代と光熱水費を一定割合で負担していたこと、業務上要した交通費を実費負担していたことを認め、その余の事実をすべて否認する。

写真フイルム代、同現像代、記者会費および交通費については、被告会社は原告に対し昭和三九年一〇月一二日以降取材活動をしないように命じており、原告もその頃以降現実に取材活動をしていないから、これを負担すべき理由はない。また図書資料費、電話代および光熱水費については小豆島支局開設後は同支局に対し出捐すべき経費であつて、原告個人に出捐すべき経費ではない。

三  仮定抗弁

1  被告会社が原告に対して行なつた本件配転および解雇に対し、原告の加入する山陽労組が昭和三九年一〇月二三日不当労働行為であることを理由に岡山地労委に被告会社を相手方として救済の申立をなし、同地労委は昭和四〇年一〇月二五日山陽労組に申立資格がないことを理由に却下したが、これに対する再審査において中労委は昭和四四年一二月三日地労委の命令を取消し、被告会社に対し、原告に本件配転および解雇がなかつたと同様の状態を回復させるとともに、原告が昭和三九年一〇月一日から昭和四〇年六月三日までの間に受けられるはずであつた給与、一時金経費および定年退職に伴う退職金の支払を命ずる救済命令を発した。これに対し被告会社は中労委の右救済命令の取消を求める行政訴訟を東京地裁に提起したところ、同地裁が中労委の緊急命令の申立を認めて被告会社に対し前記救済命令のうち経費の支払を命ずる部分を除きその余の部分につき履行を命ずる緊急命令を発したため、被告会社は昭和四五年六月三日右緊急命令に従い、原告に対し給与および一時金五〇万八一六八円、退職金六万八七四八円合計五七万六九一六円を支払つた。

2  緊急命令は仮処分、仮執行宣言と異なり、上訴、停止ということがなく、送達と同時に確定するものであり、しかも違反に対する強力な制裁によつて履行が保障されているものであるから、被告会社が緊急命令に従い、救済命令を履行するためになした前記出捐は、仮処分、仮執行による出捐が仮定的なものであるのと異なり、任意弁済と同一の効力を有するというべきである。従つて仮に本件配転および解雇が無効であるとしても、前記支払済みの範囲において被告会社に支払義務はない。

四  仮定抗弁に対する答弁

仮定抗弁1の事実を認め、同2を争う。

被告会社が本訴において本件配転および解雇が有効であると主張し、また中労委が本件配転および解雇を不当労働行為であるとして発した救済命令を行政訴訟で争つている以上、緊急命令に従つてなした支払を任意弁済ということはできない。

第三証拠〈省略〉

理由

一  請求原因(一)項12の事実はいずれも当事者間に争いがない。

二  同(二)項の事実も当事者間に争いがない。

三  そこで同(三)項について以下検討する。

(一)  先ず本件配転が不当労働行為であるか否かにつき判断する。

1  原告の組合活動歴については、原告が山陽労組員であつたことは当事者間に争いがなく、証人福武彦三、同寅丸文夫の証言および原告本人尋問の結果を総合すると、原告は昭和三七年四月一日付で嘱託から社員に登用され組合員資格を得たのに伴い、山陽労組に加入した者であるが、本件配転および解雇が行なわれる以前に組合役員に就任し、或は活発に組合活動を行なつたという事実はなく、一般の組合員であつたにすぎないことが認められ、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

2  従来被告会社が山陽労組に対してとつてきた態度については、証人神吉秀哉(第一回)の証言によつて成立を認める甲第一号証、証人福武彦三の証言によつて成立を認める甲第二号証、成立に争いがない甲第二〇号証、乙第一、第二号証、証人神吉秀哉(前同)、同福武彦三、同寅丸文夫の各証言および原告本人尋問の結果ならびに弁論の全趣旨を総合すると、次の事実(ただし当事者間に争いない部分を除く)を認めることができる。

(1) 山陽労組(昭和三〇年に従来山陽新聞従業員組合としていたのを名称変更した。)は昭和二一年三月に結成された、被告会社の従業員で組織する労働組合であるが、昭和三〇年八月青年婦人部が結成された頃から同部の若い組合員を中心に次第に積極的に活動するようになり、昭和三三年九月には賃金引き上げ要求を掲げて組合結成以来初めてストライキ権を確立した。さらに山陽労組はその後も毎年のようにストライキ権を確立し、昭和三六年七月嘱託の社員化、賃金引き上げなどの諸要求を掲げて初めてのストライキに突入した。そして右ストライキの結果山陽労組の諸要求は相当程度まで被告会社の容れるところとなつた。

(2) 被告会社は山陽労組の活動がこうして高揚して行くなかで、昭和三一年六月青年婦人部長尾原良一を本社から倉敷支社に配転したのを皮切りに(当時倉敷支社には青年婦人部員は一人しかいなかつた)、同年一一月には同じく青年婦人部長吉沢利忠を本社から倉敷支社に配転し、さらに昭和三五年四月同じく青年婦人部長土井弘高を本社から鳥取支社に配転した。また被告会社は青年婦人部以外の組合の主だつた活動家に対し次々と配転を行なつた。すなわち昭和三一年三月サークル活動を中心に活発に組合活動を行なつてきた土倉敬を本社から児島支局へ配転し、また同年一一月若い活動家の代表的存在であり、初代青年婦人部長でもあつた副執行委員長福武彦三を本社から東京支社へ配転し、さらに昭和三二年五月長らく中央委員等をつとめ、組織作りに力のあつた原憲正を本社から福山支社へ配転し、昭和三三年一月その後執行委員をつとめていた前記土倉を児島支局からさらに高松支社へ配転し、さらに昭和三六年一月になると当時本社へ戻されていた前記原を坂出支局へ配転した(同人は家庭事情から赴任できないため結局退職のやむなきに至つた)。さらに昭和三六年七月の初めてのストライキ突入に際し、被告会社は同年六月二三日山陽労組の執行委員、中央委員、代議員等を中心に同年七月一日付で配転を内示したが、その配転案は代議員、編集外勤闘争部長の泉本哲夫を本社から倉敷支社へ、代議員の坪井宗康を本社から三原支局へ、中央委員、代議員の金光奎を本社から大阪支社へ、同じく中央委員、代議員の吉沢利忠を倉敷支社から玉島支局へ、執行委員、賃金対策部長の天野朋一を本社から尾道支局へ、中央委員、代議員の寒竹哲生を本社から高松支社へ、そのほか田中信寿を本社から倉敷支社へ、児玉徹を本社から津山支社へ、周藤道生を津山支社から久米支局へ、岩藤一三を久米支局から本社へそれぞれ配転するというものであつた。その後被告会社は右配転内示をストライキによつて撤回したが、被告会社はこれにかわる前記支社局への増員異動を行なわなかつた。

(3) また昭和三一年五月開催された組合大会における役員選挙に際し、大会場隣室に控えていた総務局長大塚利一は総務局、営業局選出代議員に対し大会場からの退場を指示し、この結果組合大会は後日に延期されるに至つた。大塚局長は翌三二年五月に開催された組合大会に際しても大会前夜総務局、営業局選出代議員を料亭「新松葉」に集め、組合大会に対する指示を与え、大会当日は別室に代議員を待機させて出席させなかつた。同大会では若手の活動家である則武真一が執行委員長に萩原嗣郎が副執行委員長に立候補していたが、こうした事態から組合の分裂を回避するため、則武真一らは立候補を取り止め、三村実徳が執行委員長に選出された。

(4) その後被告会社は昭和三三年八月労務部次長を一名増員するとともにこれを非組合員化したうえ、前記三村執行委員長を労務部次長に発令した。さらに昭和三五年一月には従来組合員資格を認められてきた一般の部次長を副部長と名称変更し、これに新たに人事考課、予算編成に関与する権限を付与したことを理由に非組合員化とする旨山陽労組に通告実施した。同時に従来部長経験者或は部長待遇の者に対しては参事なる身分が与えられ、参事の身分を有する者は非組合員とされてきたが、被告会社はこの機会に参事昇進についての右運用基準を改め、部長経験者等でなくとも勤続年数二〇年以上の者を参事に昇進させることとした。被告会社のこうした措置によつて山陽労組はいつきよに七一名の組合員数の減少をみた。その後も被告会社は同年九月副部長、参事に二〇名を昇格させたため、山陽労組は結局同年中に一〇〇名に近い組合員を失なつた。さらに昭和三七年二月山陽労組は分裂し、第一労組が結成されたが、その直後被告会社は同労組との間で組合員資格の範囲につき暫定的な労働協約を締結し、従来非組合員とされてきた副部長および参事に組合員資格を認めた。そして多数の副部長、参事が第一労組に加入した。

(5) 原告は前記のとおり昭和三七年四月山陽労組に加入したが、これに対し原告の前任者でかつ入社紹介者でもある丸亀支局長長町正直を始めとする第一労組員の職制から山陽労組を脱退し、第一労組に加入するように勧誘がなされたが、原告はこの勧誘を断わつた。

(6) 被告会社は昭和三七年六月新たに労務を担当する企画局を設置するとともに、同年八月就業規則を改定し、これを実施したが、被告会社はこの改定にあたつて山陽労組との協議には応じなかつた。そしてこの改定の結果従業員は数分間でも遅刻早退したときはその理由を記載した書面による届出をし、所属上長の承認を得ることが必要となり、また休憩時間中でも外出にあたつてはあらかじめ所属上長に届出ることが必要となつたため山陽労組員を中心に従来の職場の自由な雰囲気が損われ、組合活動を行い難くなつたと感じる者もあつた。

(7) さらに被告会社は同年一一月山陽労組が岡山市内各所で「真実の報道を要求しよう。百万都市一月合併に反対しよう。」なるビラを配布し、被告会社の名誉を毀損したことを理由に執行委員長則武真一以下組合四役五名に対し懲戒解雇、教宣部長に対し停職二カ月、その他全執行委員に対し出勤停止一週間の懲戒処分をした。そして右則武執行委員長以下五名の解雇の効力が争われた地位保全仮処分申請事件において、昭和三八年一二月岡山地裁が、また昭和四三年五月広島高裁岡山支部がいずれも解雇を無効とする組合員勝訴の判決を言渡した。しかし被告会社は岡山地裁で敗訴したのちも前記則武執行委員長ら五名の職場復帰を認めず、同人らが職場集会に参加すると実力でこれを排除する措置に出た。

(8) 被告会社は昭和三八年二月山陽労組の活動家であり、前記のとおり昭和三六年六月に大阪支社へ配転が計画された本社編集局経済部金光奎記者に対し同記者の性格が内気であるなどのため外勤記者に不向きであり、統計整理に向いていることを理由に高令者と病弱者の多い同局資料部へ配転した。しかし被告会社は昭和四〇年一二月には同人を大阪支社編集部外勤記者に配転した。また同じく山陽労組員である編集局経済部滝本広樹記者も記者に不向きであることを理由に商況係へ配転した。被告会社は昭和三八年三月にも当時山陽労組の中央委員であつた総務局庶務部電話交換係主任小幡節子に対し文書課主任への配転を内示し、同女が苦情を申し立てると配転内示を撤回し、同女に電話料のつけ落ちなど事務上の手落ちがあつたことを理由に主任から降格し、減給のうえ部品の出し入れ管理を行なう同局資材部へ配転し、さらに昭和四一年一月には作業ミスがあるという理由で組版された活字の仕分けを行なう製作局第二部へ配転した。同女はそれまで一七年間電話交換手として勤務してきた者であつた。ところでその後任には第一労組員で電話交換の業務経験のない斎藤幸子が発令された。小幡節子に対し懲戒処分を行なうと同時に山陽労組員の交換手三名に対しても電話料のつけ落ちがあることを理由に譴責処分としたが、昭和三八年九月そのうちの春日井治子を文選を行なう工務局活版部に配転し、その後同女が山陽労組から脱退し、第一労組に加入した後、電話交換手の職に復帰させた。こうした懲戒処分、配転が行なわれた後山陽労組員である電話交換手は全員山陽労組から脱退した。さらに同年八月山陽新聞創刊八五周年を翌年にひかえ社内体制の充実強化を図ることを理由に大規模な人事異動を発令した。この異動では従来行なわれたことのない編集局から販売局などの他局への異種配転が行なわれ、山陽労組員である編集局経済部紀豊記者と同じく同局学芸部柳生尚志記者を販売局普及部の新聞拡張員に配転した。紀記者についてはその経済知識を団地の購読者開拓に生かせるということが、また柳生記者については購読者拡張に関連の多い映画、演劇担当の仕事をしてきたということがその理由であつた。また福山支社における山陽労組の中心的な活動家であつた神田利男を新設した広島県東城支局へ配転し、その後先に米子支局へ配転された土井記者もこの東城支局へ配転された。さらに岡山県下の支局長のうちただ一人山陽労組員であつた御津支局長池内節光は同支局の廃止に伴い平局員に格下げのうえ三次支局へ配転された。それは三次支局が重要支局であり、池内記者は支局長に不向きであることを理由とするものであつたが、同支局は半年後に二人支局から一人支局へ縮少され、ついで昭和四一年八月には廃止された。

(9) こうしたなかで組合分裂前四一〇名であつた山陽労組の組織人員は第一労組結成直後二九〇名となり、その後も山陽労組を脱退して第一労組に加入する者が続出したため、昭和三七年六月には二四〇名、昭和三八年六月には一八〇名と急速に低下して行つた。

以上のとおり認められ、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。原告主張事実(2)のうち右認定事実以外の事実については本件全証拠によるもこれを肯認することができない。

前記認定事実によれば従来被告会社は山陽労組が次第に積極的に活動する労働組合に変容して行くに従い、これを嫌悪し、当初主に組合活動家を組合活動のしにくい支社局へ配転することでその組合運動の高揚を抑えようとしてきたが、その後第一労組が結成されてからは山陽労組の活動家を中心に辺地支局或は異職種への配転を行ない、さらには懲戒処分を行なうなどの方法で山陽労組に対し組織攻撃を加え、その組織を弱体化させてきたというほかない。

3  本件配転が行なわれた当時の被告会社の山陽労組に対する組織攻撃の実情については、前掲各証拠に弁論の全趣旨によつて成立を認める甲第八号証および証人矢吹住夫の証言ならびに弁論の全趣旨を総合すると、次の事実(被告会社において明らかに争わないので自白したものとみなすべき部分を除く)を認めることができる。

(1) 被告会社は昭和三八年一〇月社業の合理化を推進するため労働時間を従来の一日八時間制から四週間を通じ一九二時間制とすることを内容とする新勤務体制の実施とこの新勤務体制の実施に伴う労働時間、時間外労働および休日の変更のほか、会社構内における政治活動の禁止、苦情処理の制限などを内容とする労働協約の改定とを提案し、同年一二月一日から新勤務体制を実施しようとしたが、山陽労組を中心とした強い反対にあい、計画どおり実施することができなかつた。当時山陽労組は約一六〇名程度を組織するにとどまり第一労組に対しきわめて劣勢であつたが、それでもなおその組織人員は総組合員数の四分の一を超えていた。このため被告会社が第一労組との間で前記内容で労働協約を改定することを妥結するに至つたとしてもその労働協約の効力を山陽労組員におよぼしえない状態にあつた。

(2) 被告会社は昭和三八年一一月山陽労組に対し組合倉庫の明渡を要求し、翌三九年三月には山陽労組書記局で使用していた被告会社の椅子の返却を要求し、さらに同年四月同書記局の電話について午後七時以降使用できないようにする措置をとつた。

(3) また被告会社代表取締役社長小寺正志は既に昭和三八年一月の新年祝賀会において「会社の利益計画に反対する者は会社の敵であり、企業から断固排除する。」趣旨の挨拶を行なつたが、昭和三九年一月の支社局長会議において重ねて「前進を阻止する者は鉄の意志をもつて排除する。」趣旨の挨拶を行ない、同年六月には前西総務局長が社報において「我々の周囲には雑草的存在がいる。会社の経営方針にもとるようなものは最も悪質な雑草でそういう存在は断じて容認することができない。生産性向上のためには雑草の根を断たねばならぬ。」趣旨を強調した。当時被告会社内においては労使間の事情殊に被告会社と山陽労組との深刻な緊張対立関係から右挨拶等はいずれも被告会社が山陽労組ないしは同労組員を被告会社にとつて好ましくない存在と断じ、これを排除して行く方針を暗に表明したものとして受けとめられた。

(4) さらに被告会社は昭和三九年二月夕刊搬送業務を下請に出すこととしたのに伴い、総務局庶務部自動車課を縮少したが、その際配転の行なわれた者の多くは山陽労組員であり、主任川勝省平に対しては主任から降格したうえ、別会社の山陽案内広告社に出向配転を行ない、この結果同人はこれまで未経験の広告業務に従事することとなつた。主任からの降格は同会社に主任という役職が不要であることを理由とするものであつた。同年四月にも同じく山陽労組員である工務局印刷部の主任清水秀男を主任から降格して前記山陽案内広告社へ出向配転した。同人はそれまで一〇数年間印刷技術畑一筋に勤務してきた者であつたが、また職場の中心的な活動家でもあつた。そして同年三月被告会社は後記のとおり原告に対し本件配転を内示したほか、いずれも山陽労組員に対し次の配転を内示した。すなわち本社編集局ラジオ、テレビ部の高田雅之に対し三原支局へ、また東京支社営業部の高原敏子に対し本社広告局広告部へ、玉野支社の貝原光世を新設の香川県大内支局へ、さらに高松支社の寅丸文夫を観音寺支局へそれぞれ配転する旨内示した。しかし高田雅之は当時結核による長い休職から復職したばかりであり、喘息の持病もあるため医師から急激な環境変化や戸外での労働を避け、さらに療養する必要があると診断され、夜勤や残業を行なわないで比較的軽い勤務についていた者であり、しかも三原支局への配転によつて妻との別居を余儀なくされる事情にあつた。高原敏子は東京支社で採用されて以来二〇年余引き続き同支社に勤務してきた者で、家族等もすべて東京に在住し、岡山には身寄りがいなかつた。そして同女もまた結核性腸管癒着などの病気のため東大病院の医師などから環境の変化は健康に支障をきたすと診断されていた。同女はこの配転内示に対し苦情を申し立てたところ、その処理手続の過程で被告会社は同女に対し本社嘱託医の診断を受けるよう要求した。このため同女は来岡してその診断を受けたが、途中で倒れ、その後一カ月にわたり岡山日赤病院に入院を余儀なくされたが、被告会社はその後も配転内示の撤回はしなかつた。貝原光世もこの配転によつて玉野市内の小学校に勤務する妻と別居させられることとなつた。寅丸文夫は昭和二八年被告会社に入社して以来引き続き高松支社に勤務している者であり、長く執行委員をしている活動家である。

(5) 被告会社はその後昭和三九年四月山陽労組に対してのみ労働協約の破棄を通告し、四月実施の賃金引き上げと抱き合わせで労働協約の改定と新勤務体制の実施を迫つた。こうしたなかで山陽労組から脱退し、第一労組に加入する者はさらに増加し、山陽労組の組合員数は昭和三九年六月現在約一三〇名となり、ついにその数は総組合員数の四分の一を切るに至つた。被告会社は同年四月既に第一労組との間で労働協約の改定について妥結しており、山陽労組もこうした情勢下にあつて労働協約の改定に応じざるを得ず、その結果被告会社が懸案としてきた新勤務体制は同年七月から実施された。

以上のとおり認められ、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。原告の主張事実(3)のうち右認定事実以外の事実については本件全証拠によるも肯認することができない。

前記認定事実によると、被告会社は本件配転を内示した当時会社業務の合理化を推進するため新勤務体制の実施と右実施に伴う労働協約の改定を計画し、山陽労組がこれを実現するうえで障害となることからさらに徹底してその組織を弱体化させるべく、特に配転による組織攻撃を強め、組合活動家であると一般組合員であるとを問わず本人の希望、事情、経歴等を十分考慮しない厳しい配転を行なつていたことが明らかである。

4  本件配転が行なわれた経緯および理由については、成立に争いない甲第三ないし第六号証、原告本人尋問の結果によつて成立を認める甲第七号証、前掲甲第八号証、弁論の全趣旨によつて成立を認める甲第一〇ないし第一四号証、前掲甲第二〇号証、証人平井文雄の証言によつて成立を認める乙第三号証、成立に争いない乙第一四号証、証人福武彦三、同寅丸文夫、同松岡良明(後記認定に反する部分を除く)、同川西利衛、同森尾茂(前同)、同東原金久(前同)、同笠井宣弘、同木下堅太郎、同矢吹住夫、同三杉英明(前同)、同平井文雄(前同)、同松本純郎(前同)の各証言および原告本人尋問の結果ならびに弁論の全趣旨を総合すると、次の事実(ただし当事者間に争いない部分を除く)を認めることができる。

(1) 原告は昭和三九年三月上旬業務のため高松支社に赴いた際、原告の直接の上司であり、第一労組員でもある長町通信部副部長から「第一労組へ来ないか。会社としては山陽労組をつぶすのが最終の目的であるから山陽労組にいる間はうだつがあがらないし、見込みがない。もし第一労組へ来るならば定年後も小豆島に嘱託として残れるよう便宜をはかろうではないか。筋を通すのも結構だけれど、長いものには巻かれろという諺のように世の中は世渡りの上手なのが得策だ。承知のように山陽労組はボーナスが第一労組に比べて低かつたろう。しかしおまえだけは特に多かつたはずだ。それというのもいずれ第一労組に来てもらうという含みのもとに多かつたのだ。」ともちかけられ、山陽労組を脱退し、第一労組に加入するように強く勧められた。しかし原告はこれに対し「組合を分裂させるようなことは理由のいかんを問わずよくない。二度と第一労組へ来いというような勧誘をしてくれるな。」と述べてこれを断わつた。

(2) ところがその後同月一〇日頃原告は本社において編集局長松岡良明と同局次長伏見朝光から同局校閲部への配転について意向を打診された。これに対し原告は妻が長年病弱で床に就くことも少なくなく、子供も中学生でまだ年幼いうえ、小豆島に自宅があり、会社業務のかたわら田畑を耕作して生計の足しとしているため小豆島を離れ、本社に赴任すれば家庭的にも経済的にも破綻すること、これまで小豆島に長年いることなどをあげて配転には応じられない旨述べ、松岡編集局長らに配転の理由を尋ねたが、同局長らはただ会社の都合であるとのみ述べてそれ以上具体的な理由の説明をしなかつた。そしてその後同月一七日被告会社は原告に対し四月一日付の本件配転を内示した。そこで原告は三月二六日、小豆島勤務を条件として入社したこと、これまで被告会社の業務に精励し、何ら支障を与えたことはないこと、妻が長年病気を患つていること本件配転は原告に退職を強いるものであり、原告が山陽労組員であるが故になされた不当労働行為であることを理由に苦情を申し立てた。原告の苦情は原告と同時に行なわれた山陽労組員の配転に対する苦情案件とともに一括審理されたが、職場苦情処理委員会でも全体苦情処理委員会でも労使双方の委員の意見が対立し平行線をたどつたまま結論が出ず、さらに社外の学識経験者等からなる中立委員三名を加えた苦情仲裁委員会の審理に移され、その審理の過程では中立委員側から被告会社は原告と前記高田雅之の配転を撤回し、山陽労組はその他の配転については条件付で応じるという斡旋案が提示されたが、被告会社がこれを受け入れることを拒否したため、中立委員は仲裁を断念した。被告会社は右苦情処理手続が終るとともに原告に対し一〇月一日付で本件配転を発令した。

(3) ところで原告の妻は長年虹彩炎、関節リユウマチ、高血圧症を患い、本件配転問題が持ち上つた当時病床につくことが少なくなく、原告なくしては約一ヘクタールにも及ぶ田畑の仕事は思うにまかせず、炊事すら原告がかわつてしなければならないことがある状態であつた。また原告の子供は当時中学校に通つていた。

(4) こうした家庭事情のため、原告は本件配転が発令された後も依然小豆島にあつて通信員としての勤務を続けながら、同年一〇月九日小寺社長あて書簡を送り、家庭内の事情のため赴任できないので配転につき再考してもらいたい旨要請した。しかし同月一二日松岡編集局長から再考の余地はない旨の回答がなされ、それでもなお原告は同月一四日松岡編集局長あて本社への転勤によつて経済的に破綻するに至ること、また秋冷とともに妻の病気が再発し、目下通院中で予断を許さない状況にある旨訴え、配転について再考を求め、さらに同月一九日にも被告会社あて再考を求める書簡を送つた。これに対し被告会社は一〇月二一日松岡編集局長名で再考の余地はなく、直ちに着任するよう警告するとともに同月一二日以降無断欠勤しているので賃金の支払はできない、また記事原稿を送つてはならない旨通告した。その後被告会社は同年一一月一一日付小寺社長名の文書で原告に対し早急に着任するよう命じ、同月一六日で無断欠勤一カ月におよぶためそのときは就業規則によつて解雇する旨予告した。この文書が原告方に到着した同月一二日原告の妻は通院先の病院で脳卒中の発作を起して倒れ、同月一七日意識が回復しないまま死亡した。

(5) 被告会社は原告の妻が死亡した後事情が変更したとの理由で原告に対し嘱託としてならば現任地で昭和四〇年六月末まで雇用してよい旨申し出たが、原告はこれを拒否した。この申し出は現任地に置くという点で被告会社が譲歩したものであつたが、反面本給は二、三割方少なくなり、組合員資格も失うというものであつた。

(6) ところで被告会社は香川県下を中心に主として取材の強化を図ることを理由に昭和三九年四月一日当時同県下にあつた小豆島、三本松、直島の三通信部のうち小豆島通信部と三本松通信部を小豆島支局と大内支局にそれぞれ昇格させ、小豆島支局長には観音寺支局の上田正彰をあてるとともに、原告を小豆島から異動させた。

(7) しかし被告会社が右大内支局長に山陽労組員である玉野支社の貝原光世をあてたことは前記のとおりである。しかも被告会社がその際右以外に講じた措置は小豆島についてみると、従来原告の自宅が通信部にあてられていたものを新たに他から家屋を借り受けてこれを支局社屋とし、屋内の付属設備を購入するために若干の経費の支出を認めただけで、もとより人員の増強は行なわなかつた。しかも直島通信部についてはその後玉野支社に近いという理由で廃止した。そして被告会社は原告に対する発令を待つことなく、昭和三九年四月一日付で前記上田正彰を小豆島支局長に発令したが、同人に、家族を高松市内に残しての単身赴任を認めたため、同人は毎週土曜日から日曜日にかけて小豆島を離れることが多く、このため偶々日曜日に発生した女子中学生殺害事件、観光バス転落事故などの重大事件について取材が遅れ、原告が同人にかわつて取材するという事態も生じた。

(8) 他方原告は関西大学専門部国漢部専攻科を卒業後約一〇年間毎日新聞社に奉職し、善通寺通信部主任、中国特派員、本社地方部勤務の経験を有する記者であつたが、父親が病気で倒れたのを契機に郷里の小豆島に帰り、約一ヘクタールの田畑を耕作するかたわらNHK、産経新聞の嘱託通信員をしていたところ、当時被告会社の四国支社勤務内海通信員をしていた前記長町正直の紹介で被告会社に入社した者である。原告は小豆島の農業の発展に寄与したことでNHK会長、香川県知事、日本経済新聞社などから表彰を受け、農業面には卓越した知識を有しており、これまでこうした知識と被告会社から表彰を受けたこともある優れた写真技術を生かし、一一年余にわたり専門的な農業技術に関する記事から四季の草花の話題についての記事に至るまで農業と観光の小豆島にふさわしい記事の取材と送稿につとめ、このために必要なオートバイ、机等の器具備品類を自己負担で揃え、また電話も自費で架設して取材活動に役立ててきた。その間取材もれといつた格別の失敗もなく、被告会社から記事取材面で問題ありと指摘されることもなかつた。上田支局長が着任後は同人と二人で記事の取材送稿にあたつたが、紙面に掲載された原告の記事原稿の分量をみても原告は上田支局長にくらべて遜色はなかつた。これまで原告は地元記者仲間でも優秀な記者として評価されており、殊に地元出身であるだけに、小豆島の政財界、住民に広く親しまれ、本件配転が問題化したのち内海、土庄両町長、町議会議長、観光協会等から被告会社の小寺社長あて配転撤回の嘆願書が出されたほどであつた。もつとも原告は通信員の業務は記事の取材送稿であるという考えから、それ以外の被告会社紙の購読者の拡張、広告の収集などに必ずしも積極的でなかつたが、かつて土庄町から内海町まで新聞の搬送者がいなかつたときには約一カ月にわたり早朝三時から起き出して約一〇キロメートルの距離をオートバイで飛ばし、新聞の搬送を続けたこともあり、また昭和三八年一〇月に行なわれた購読者拡張運動に際しては販売担当員と協力して被告会社紙の販売店を多数増加させたこともあつた。

(9) また被告会社は、原告の配転先を本社編集局校閲部としたことについて、原告は国漢の素養があり、校閲に最適であることと原告に若い社員に対する教育を期待していたことをその理由としたが、校閲部の実情はつぎのとおりであつた。

(10) 従来被告会社では、校閲部は新入社員が社員教育の見地から配属される部署であり、新入社員は少なくとも一年ないし二年間校閲業務に従事して、記事の書き方・紙面の割りつけなど新聞社員としての基礎的一般的な知識を修得すべきものとされてきた。しかし原告は校閲部に勤務した経験がなく、しかも校閲業務を修得するためには少なくとも三カ月を要するとされている。ところが原告は後記のように当初本件配転の発令が予定された日から一年二カ月後、現実に発令されたときからであれば八カ月後に就業規則に定める五五才の定年に達することになつていた。原告と同時に昭和三七年四月一日付で嘱託から社員に登用された編集局関係の一九名のうち昭和四三年三月までに校閲部に配転となつた者は原告以外に四名あるが、その校閲部における勤務は最も短い者でも一年六カ月であり、最も長い者では五年近くにおよび、平均勤務期間は三年を超えている。しかも前記理由で定年間近い者が校閲部へ配転された事例はこれまでにない。加うるに被告会社はその後原告を解雇したことに伴う校閲部への補充異動を行なわなかつた。

以上のとおり認められ、前掲証言中右認定に反する部分は右認定事実と対比して採用することができず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。原告主張事実(4)および(6)のうち右認定事実以外の事実については本件全証拠によるもこれを肯認することができない。

先ず前記認定事実によると、本件配転が行なわれた経緯に照らし、長町副部長は被告会社の意を受けて原告に対し山陽労組を脱退し第一労組に加入するよう勧誘したところ、原告がこれに応じなかつたことから被告会社が本件配転を行なつた疑いがあるが、いまだこれを的確に肯認することはできない。しかし本件配転は合理的根拠を欠いていることが明らかである。すなわち被告会社は香川県下を中心に主として取材の強化を図る方策の一環として原告を小豆島から異動させることとしたというが、原告が取材能力の面で上田支局長に比べて遜色があつたとは認めえないのみならず、かえつて本件配転により取材態勢の面で問題を生じたことは前記認定のとおりであり、従つて原告を異動させることとした措置がどれほど取材強化を図るうえで効果的であつたか疑わしい。しかも被告会社は大内支局長に前記貝原光世をあてていること、被告が人事異動以外に講じた措置で取材の強化に直接役立つものはほとんどなかつたこと、その後直島通信部を廃止したことは取材強化に逆行するといえなくもないことなどからすると、被告会社に真実取材強化の目的があつたか否か疑わしい。そして原告が家庭に日常家事すらも十分にできないこともある病妻と中学生の子供をかかえ、約一ヘクタールにも及ぶ田畑を耕作していたこと、これまで長年小豆島にあつて格別の失敗もなく被告会社の業務に精励してきており、定年まで余すところ僅かしかなかつたこと、小豆島勤務を強く希望していたことなど前記認定の諸般の事情を総合するならば、原告を支局長に登用するか否かは別論として引き続き現任地に残すことが妥当な措置であつたと考えられる。被告会社が、苦情処理手続が終るまでの暫定的な措置であつたにせよ、昭和三九年四月一日から同年九月三〇日まで小豆島に二人の従業員を置いたこと、原告の妻が死亡した後に嘱託として現任地に残すことを原告に申し出ていることからすると、原告を現任地で引き続き勤務させることが被告会社にとつて困難な措置であつたとは認め難い。被告会社が原告の配転先を本社編集局校閲部としたことについても、定年まで余すところ僅かしかない時期にこれまで校正の経験のない原告を配転したことは妥当な措置であつたと認め難いのみならず、被告会社のいうところの理由自体曖昧な点があり、これまでに前例のない異動であること、原告を解雇したのに伴う校閲部への補充異動をしていないことからすると、真実原告が校閲に最適であると考え、また若い社員に対する教育を期待していたとすることも疑わしい(付言するならば、本社編集局地方部次長、同部長を歴任し、高松支社編集部長である証人森尾茂が原告の記事原稿には新聞記者の初歩としての五Wを欠き、当用漢字も新かなづかいも用いられていないと証言していることはこの疑いを一層深めるものである)。結局本件配転は原告を小豆島から異動させた点においてもまたその異動先を本社編集局校閲部とした点においても合理的根拠を欠いているものと言わざるを得ない。

5  以上被告会社が従来山陽労組を嫌悪し、その組合運動の高揚を抑え、さらにはその組織を弱体化させるため組合活動家を中心に配転、懲戒処分等の組織攻撃を加えていたこと、殊に本件配転を内示した当時合理化推進のため新勤務体制を実施し、これに伴い労働協約を改定しようとしていつそう山陽労組の組織を弱体化させるため組合活動家であると一般組合員であるとを問わず厳しい配転を行なつていたこと、本件配転には合理的根拠を欠いていることなど前記諸事情を総合するならば、原告は一般組合員であつたに過ぎないけれども、本件配転は山陽労組に対する組織攻撃の一環として行なわれた、労働組合法七条三号に該当する不当労働行為というべきである。

(二)  そして右法条が憲法二八条に規定する労働者の団結権その他の労働基本権を保障するために設けられた趣旨にかんがみ、これに違反する法律行為は当然に無効とすべきものであり、本件配転もその余の原告の主張について検討するまでもなく無効というべきであるから、原告が本件配転命令に応じて本社編集局校閲部の勤務に就かなかつたことをもつて無断欠勤とはなしえない。従つてまた被告会社がこれを理由として就業規則に定める解雇にあたるとして原告を解雇することは許されず、本件解雇はその余の原告の主張について検討するまでもなく無効である。

四  請求原因(四)項について検討する。

(一)  原告が昭和四〇年六月三日就業規則に定める満五五才の定年に達したことは当事者間に争いがなく、従つて原告は同日被告会社を退職したというべきである。

次に前掲乙第一四号証、証人松岡良明、同川西利衛の証言および原告本人尋問の結果を総合すると、原告は本件配転発令後も昭和三九年一一月中旬頃まで記事を取材して送稿を続け、被告会社は同年一〇月一〇日頃まで原告の取材した記事を新聞紙面に掲載してきたが、同月一四日頃原告に対し同月一二日以降記事の取材をしないように命じ、さらにその後同月二一日頃原告に対し記事原稿を送らないように命じるとともに既に原告が被告会社あて送つていた記事原稿を小包で送り返し、爾来原告の送つた記事原稿について同様の措置をとつたことが認められ、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。右認定事実によると原告は本件配転発令後も労務の提供を続けたのに対し、被告会社は昭和三九年一〇月一二日以降取材しないように命じて受領拒絶の意思を明らかにし、同月二九日以降はこれを受領することを拒絶し、受領遅滞にあつたといえるから、被告会社は原告が被告会社の業務に従事していた同年一一月中旬頃までについてはもとより、原告が現実に業務に従事していなかつた同時期以降も原告が退職した昭和四〇年六月三日まで所定の給与、一時金、立替経費を支払う義務がある。

(二)  そこで原告が右期間中に支払を受けるべき賃金等について検討する。

1  給与

(1) 原告が昭和三九年九月三〇日現在毎月請求原因(四)項2(1)イ記載の金額の給与の支払を同記載の時期に受けていたことは当事者間に争いがない。

ところで前掲乙第一号証によると外勤記者基準外打切手当は一般の時間外勤務手当にかわるものであり基準外勤務を命じない者には支給しないことが認められ、証人神吉秀哉の証言(第二回)中右認定に反する部分はたやすく措信し難いところ(他に右認定に反する証拠はない)、昭和三九年一〇月一日以降被告会社が原告に対し基準外勤務を命じたことを認めるに足りる的確な証拠はないのみならず、前記認定のとおり被告会社は原告に対し昭和三九年一〇月一二日以後記事の取材送稿をしないように命じているので原告に右打切手当の請求権を認めることはできない。従つて原告は昭和三九年一〇月一日以降も次の昇給期まで毎月前記金額のうち右打切手当を控除した残余の給与の支払を受けることができるというべきである。

ただし家族手当については原告の妻が昭和三九年一一月一七日死亡したことは当事者間に争いがなく、前掲乙第一号証および証人神吉秀哉の証言(第二回)によるとその場合家族手当は翌一二月分以降一五〇〇円となることが認められ、他に右認定に反する証拠はない。

(2) 次に成立に争いない甲第一五号証、前掲乙第一号証、成立に争いない乙第一三号証の一、原告作成部分につき成立に争いなく、その余の部分につき証人浅田昭治の証言によつて成立を認める同号証の二、右証言によつて成立を認める乙第一五号証の一、二、証人神吉秀哉(第二回、後記認定に反する部分を除く)、同浅田昭治の証言を総合すると、昭和四〇年五月三一日被告会社と山陽労組との間で行なわれた賃金引き上げ交渉が妥結し、そこで締結された協約に基づき同年四月一日から組合員一人平均二六〇〇円の本給引き上げが行なわれ、配分方法は定期昇給として調整金八〇〇円、ベースアツプとして一律一三〇〇円スライド五〇〇円であり、当時の組合員の平均本給額は二万七一四〇円であつたこと、定期昇給分については全額被告会社の査定によつて決定されるものであり、昭和四〇年四月一日実施の賃金引き上げについては昭和三九年四月一日から昭和四〇年三月三一日までの期間が査定の対象となるが、原告の場合本件解雇がなされたため昇給の可否、金額についての査定がなされていないこと、就業規則の付属規定である賃金給与規定によると、昇給は原則として毎年四月一日に行なうが、被懲戒者、長期欠勤者、休職者、入社後経過期間の短い者その他会社が必要でないと認めた者に対しては昇給を行なわないことがあり、昇給額は各人の年令、学力、経験、技術、能力、勤怠その他の成績を考慮して決定する旨定められていること、査定対象期間内に欠勤がある場合には査定に先立つて所定労働日数に対する欠勤日数の割合に応じた欠勤控除がなされ、その後の標準調整金について査定がなされること、原告は対象期間中の労働日数三〇七日のうち二三日病気のため欠勤したこと、昇給額の一〇円未満の端数については四捨五入処理が行なわれることが認められ、証人神吉秀哉の証言(第二回)中右認定に反する部分は採用することができず、他に右認定に反する証拠はない。右認定事実によると前記定期昇給分を除き一九五〇円の引き上げとなることが計算上明らかであり、従つて原告の本給額は三万七一九〇円となる。

ところで原告は被告会社の責に帰すべき事由によつて原告が他の従業員よりも不利益な取扱を受けるのは公平の原則に反するところであり、原告が平均以上の勤務成績をあげている場合には、被告会社は、その査定がなくとも組合員の平均本給額に対する平均調整金の比率を原告の本給額に乗じて得た金額を調整金として原告に支払うべき義務があると解するのが合理的であると主張するが、労働協約、就業規則等に昇給の可否、金額等の決定について使用者に裁量の余地がほとんどない程度に詳細かつ明確な基準が定められているため機械的に算定しうるような場合ならばあえて使用者の形式的な査定の有無を問うまでもなくかかる方法で算定された金額につき賃金債権として認める余地があるとしても、前記認定のような抽象的な基準の下においては被告会社の査定という意思表示があつて初めて賃金額につき雇用契約の内容が変更されることとなる面を無視し去ることはできず、結局定期昇給分については被告会社の査定がなされない限り賃金債権の成立を認めることはできない。

しかし前記三(一)4(8)、四(一)において認定の諸事情を総合するならば、原告は前記昇給の可否、金額を決定する基準に従い少なくとも欠勤控除後の標準調整金を受けることのできる具体的にして確実な期待を有したということができ、しかもかかる期待は十分法的な保護に値いすると解されるところ、既に検討したように被告会社が原告を違法に配転したうえ解雇した結果原告に対しなすべき義務を負つている査定を行なわなかつた結果、原告は右期待を侵害されたというべきであるから、被告会社は原告がこのために受けた前記標準調整金相当額の損害を賠償する義務がある。そして前記認定事実によると欠勤控除前の調整金は一〇三九円であり、これが行なわれた後の標準調整金は九六一円となることが計算上明らかであるが、昇給額につき四捨五入処理がなされる関係上、原告は昭和四〇年四月一日から同年六月三日まで毎月九六〇円の損害を受けたこととなる。

また前掲各証拠によると、被告会社では勤続三年以上の者に対しては勤続一年につき月額一〇〇円の勤続手当が支給されることが認められ、他に右認定に反する証拠はなく、原告が昭和四〇年四月一日をもつて勤続三年以上に達することは既に述べたとおりであるから、原告は同月以降毎月勤続手当三〇〇円の支給を受けることができる。

結局原告は昭和四〇年四月一日以降同年六月三日まで賃金引き上げ等のため給与および損害賠償として毎月三万九九五〇円の支払を受けることができる。ただし前掲乙第一号証、第一五号証の二および証人神吉秀哉の証言(第二回)によると、退職した月の給与は退職した日のいかんを問わず全額支給することとなつていることが認められ、他に右認定に反する証拠はない(従つて損害賠償分についても退職した月の全額について計算すべきこととなる)。

(3) 以上原告が昭和三九年一〇月一日から昭和四〇年六月三日までの間の給与および損害賠償として支払を受けるべき金額は合計三四万一二九〇円となることが計算上明らかであるが、これから、原告が既に支払を受けていることを自認する四万九五九九円を差し引くと残額は二九万一六九一円となる。

2  一時金

(1) 成立に争いない甲第一六号証、前掲乙第一三、一五号証の各一、二、証人神吉秀哉(第二回、後記認定に反する部分を除く)、同浅田昭治の証言を総合すると、昭和三九年一二月九日被告会社と山陽労組との間で締結された昭和三九年年末一時金に関する協約に基づき同月一七日組合員一人平均八万九〇〇〇円の一時金が支給され、配分方法は本給の一九割家族手当の一五割職分手当の五割一律一万円調整金二万五三一七円であり、当時の組合員の平均本給額は二万七一一二円であつたこと、調整金については全額被告会社の査定によつて決定されるものであり、昭和三九年年末一時金にあつては昭和三九年六月一日から同年一一月三〇日までの期間が査定の対象となるが、原告の場合本件配転がなされたため調整金の有無、金額について査定がなされていないこと、査定は勤務成績を考慮してなされ、対象期間内に欠勤がある場合には調整金についてだけでなく、すべての金額について所定労働日数に対する欠勤日数の割合に応じた欠勤控除がなされ、その後の標準調整金につき査定が行なわれるところ、原告は対象期間中の所定労働日数一五三日のうち二三日病気のため欠勤したこと、支給額の一〇〇円未満の端数については四九捨五〇入処理が行なわれることを認めることができ、証人神吉秀哉の証言(第二回)中右認定に反する部分は採用することができず、他に右認定に反する証拠はない。右認定事実によると調整金分を除いた原告の欠勤控除後の一時金額は六万七九三六円となることが計算上明らかである。

ところで原告は一時金支給の場合にも賃金引き上げの場合と同様平均本給額に対する平均調整金の比率を原告の本給額に乗じて算出した金額を調整金として支払う義務があると主張するのであるが、既に検討したように被告会社の査定がなされない限り賃金債権の成立を認めることはできない。しかし前同様の理由で被告会社は査定を行なわないことにより原告の有した欠勤控除後の標準調整金に対する期待を侵害したといえるから、右標準調整金相当額の損害を賠償する義務がある。そして前記認定事実によると欠勤控除前の調整金は三万二九〇七円となり、右控除をした後の標準調整金は二万七九五八円となることが計算上明らかであるから、昭和三九年年末一時金および右損害賠償額の合計は九万五八九四円となるところ、支給額につき四九捨五〇入処理がなされる関係上、原告が支払を受けるべき金額は九万五九〇〇円となる。

(2) 次に成立に争いない甲第一七号証、前掲乙第一五号証の一、二、証人神吉秀哉(第二回、後記認定に反する部分を除く)、同浅田昭治の証言を総合すると、昭和四〇年六月二六日被告会社と山陽労組との間で締結された昭和四〇年夏季一時金に関する協約に基づき、同月三〇日組合員一人平均八万四〇〇〇円の一時金が支給され、配分方法は本給の一八割家族手当の一五割職分手当の五割一律九五〇〇円調整金一万九〇〇二円であり、当時の組合員の平均本給額は二万九五八二円であつたこと、調整金は全額被告会社の査定によつて決定され、右一時金の場合昭和三九年一二月一日から昭和四〇年五月三一日までの期間が査定の対象となるが、原告の場合本件解雇がなされたため調整金に関する査定がなされていないこと、査定は成績を考慮してなされること、支給額の一〇〇円未満の端数については四九捨五〇入処理が行なわれることを認めることができ証人神吉秀哉の証言(第二回)中右認定に反する部分は採用することができず、他に右認定に反する証拠はない。右認定事実によると調整金を除いた原告の一時金の額は七万八六九二円であることが計算上明らかである。

前同様原告は調整金につき賃金債権を有するということはできないが、標準調整金相当額の損害賠償請求権を有するということができ、また昭和四〇年四月一日実施の賃金引き上げの際定期昇給分につき九六〇円の本給引き上げがなされなかつたことにより昭和四〇年夏季一時金の支給に際し原告は右本給未引き上げ分に対応する損害を受けたというべきである。前記認定によると、標準調整金は二万三八八九円となり、本給未引き上げ分に対応するものは二三四五円となることが計算上明らかである。

従つて以上の合計額は一〇万四九二六円となるところ、一時金支給額につき四九捨五〇入処理がなされる関係上、原告が昭和四〇年夏季一時金および損害賠償として支払を受けるべき金額は合計一〇万四九〇〇円となる。

(3) 以上原告が昭和三九年年末分および昭和四〇年夏季分の一時金および損害賠償として支払を受けるべき金額は合計二〇万〇八〇〇円となることが計算上明らかであるが、これに対し、原告が既に支払を受けていることを自認する五万七六〇〇円を差し引くと残額は一四万三二〇〇円となる。

3  立替経費

(1) 先ず写真フイルム代、同現像代、郵便代および交通費について、証人神吉秀哉の証言(第二回)および原告本人尋問の結果によると、原告が本件配転発令後も既述のとおり昭和三九年一一月中旬頃まで高松支社勤務小豆島通信員として記事の取材送稿をしたのに伴い、右経費を出捐したことを一応認めることができるが(他に右認定を左右するに足りる証拠はない)、本件全証拠によるもその数額を的確に認めることができない。また部落会費、車両修繕費および光熱水費についても前同様本件全証拠によるもその数額を的確に認めることができない。

次に証人神吉秀哉(第二回)、同浅田昭治の各証言によると原告は本件配転発令後も引き続き少なくとも昭和四〇年五月末日までの八カ月間二種類の新聞を購読し、毎月購読料七〇〇円を支払つていたこと、また自宅の電話につき毎月少なくとも電話代八七〇円を支払つていたこと、さらに昭和三九年一二月までは地元の記者クラブに加入し、毎月会費一〇〇円を支払つていたことを認めることができ、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

(2) 証人平井文雄、同神吉秀哉(第二回)、同松本純郎、同浅田昭治の各証言および弁論の全趣旨によると、被告会社は従来支社局、通信部の記者に対し取材活動に関連して出捐した経費をその請求に応じて一定の範囲内で毎月二〇日締切り翌月一八日払いの方法で負担してきたこと、これらの経費のなかには前記写真フイルム代、同現像代などのほか、図書資料費として同業他社の二種類の新聞購読料、地元記者クラブの会費が含まれ、さらに通信員の場合自宅が社屋がわりとされていたためその架設電話の料金も含まれていたことを認めることができ、他に右認定に反する証拠はないが、既述のとおり被告会社では昭和三九年四月一日付で小豆島通信部を廃止し、小豆島支局を開設しているので、このような場合でもなお被告会社が通信員の自宅の架設電話料金を負担すべきであるとする事情を認めるに足りる証拠はない。

従つて被告会社は原告が出捐した前記経費のうち図書資料費五六〇〇円および記者会費三〇〇円合計五九〇〇円を支払う義務がある。なお既述のとおり被告会社は原告に対し昭和三九年一〇月一二日以降取材活動をしないように命じているが、これは無効な本件配転を前提としてなされたものであるから、これをもつて前記経費の負担を否定する理由とはなしえない。

4  以上原告が給与、一時金、損害賠償および立替経費として支給を受けるべき金額は四四万〇七九一円となることが計算上明らかである。

五  仮定抗弁について検討する。

1  仮定抗弁1の事実は当事者間に争いがない。

2  そこで同2の主張について検討する。

緊急命令は、労働委員会の救済命令が、これに対する取消訴訟の確定判決によつて支持され確定するまでの間、違反した場合の過料の制裁を課することによつて救済命令で使用者に課せられた公法上の義務を履行させ、もつて不当労働行為に対する迅速な救済を実現するため、受訴裁判所の発する暫定的な決定であり、かかる制度の目的と性質にかんがみればこの緊急命令に従い、救済命令を履行するためになした出捐は特段の事情のない限り任意弁済の効力を有しないことは明らかであり、既にみてきたように被告会社は本訴において本件配転および解雇が有効になされたものと主張して争つていることなどからすれば特段の事情があるとは言えない。従つて被告会社の仮定抗弁は採用できない。

六  以上の次第で原告の本訴請求は四四万〇七九一円およびこれに対する訴の変更申立書送達の翌日であることが記録上明らかである昭和四〇年一〇月五日から完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で正当として認容し、その余は失当として棄却すべきものであるから、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九二条、八九条を、仮執行宣言につき同法一九六条を各適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 中原恒雄 松尾政行 渡辺温)

(別表省略)

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